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社会を変質させる「散歩」というラジカルな行為について。|中島晴矢インタビュー

現代美術家にしてMCの中島晴矢の個展『麻布逍揺』が、東京・六本木のSNOW Contemporaryで開催されている。中島はこれまでに、出生地のニュータウンを題材にした映像作品『バーリ・トゥード in ニュータウン』や、福島・小名浜を歩く『浦島現代徘徊潭』といった作品を発表。また、ヒップホップユニット・Stag Beatとしてクラウドファンディングで集めた資金をもとに、フルアルバム『From Insect Cage』をリリースしてきた。今回の展示名もある「逍遥」とは、ぶらぶらとそぞろ歩く行為―つまり、散歩のことを指す。中島がこれまでにもこだわってきたこの”逍遥”について、そして自身の表現活動の両輪をなす芸術と音楽について尋ねた。

photo_Ryuichi Taniura text_Kentaro Okumura

文学、ナンパ、自治空間…往年の大学生のような高校生活

——中島晴矢さんは、どちらの生まれですか?

たまプラーザのニュータウンの生まれで、小学校まではその辺で過ごしました。郊外論が好きなのはその影響かも。

——そこから、麻布学園(麻布中学校・麻布高等学校の中高一貫校)へ進学。これはどういうきっかけで?

文化祭でやっていたプロレスを見て(笑)。みんな髪の毛を緑色に染めたり、とにかくヤバかったんですよ。ちなみに僕がやったときは、その頃たけし軍団と電撃ネットワークに憧れてたので、南部虎弾みたいな「金髪+逆モヒカン」にしました。


——どんな学生生活でしたか?

小学校の時の受験でゴールが見えることに気づいて飽きたので、最初から受験勉強はしないと決めてました。その代わりに文化祭の企画をずっとやっていましたね。大学の学園祭のような雰囲気があって、文化祭の費用(800万円)を生徒が運用したりと、生徒自治の文化が徹底していて。学生運動が盛んだった時代のような空気が生きてたんです。学園内に「地下美術室」など、教師が入れないグラフィティまみれのアジールがいくつかあって。

——先生は入れないんですね。

排除しますね、自治区だから(笑)。1972年くらいの高校紛争のときに、当時の校長を生徒が追放したことがあったそうで、それ以降、生徒が自分たちで運営する姿勢とリベラルな空気が漂っていた。自分のことは自分でやるし、教師も生徒の勉強について特に何も言わない。

そんな中で、ぼくは文学にかぶれて、中学の時から太宰治を読破したりしていました。自由に思考したり哲学的に考える時間が膨大にあったので、そうやって本を読んで考えることと、合コンしたりして都市で遊ぶことの両方、つまりパイセンでもある社会学者の宮台真司さんの言葉を借りると「ナンパしながら革命する」っていうノリをずっとやってたんです。

そのまま東大に行けたりしないかなぁとか思ってたんですけど、高2くらいに偏差値が30台だと気づいて、これはダメだなと(笑)。そこから社会学や哲学、文学に逃げ、当たり前に浪人して、現役での大学受験は放棄した。浪人中に予備校で画家・内海信彦さんの「芸術・文化系論文」というクラスがあって、そこにハマりました。

一応「小論文対策の授業」という体なんですが、完全にアジテーションをする先生で(笑)。画家であり、アーティストなんです。彼に影響を受けて、芸術家と関わることに興味を持ち始めた。

「渋家(shibuhouse)」(※1)を主宰している齋藤桂太に会ったのも、予備校で同じクラスになったことがきっかけです。そのクラスでの交流を通じて、美術への関心が育っていきました。そのときも勉強にはあまり取り組まず、神保町が最寄りだったので、いっぱい本を読んで、クラスでパフォーマンスをしたり、映画を撮ったりして過ごして。内海さんが美学校(※2)の先生をしていたこともあって、浪人中から美学校に顔を出すようになりました。

※1…渋谷・南平台にある地下1階・地上3階の共同生活・制作のための空間。メンバーは年齢や職業を問わず、生活や活動も固定されない。

※2…東京都神保町にある1969年創立の美術/音楽/メディア表現の学校。近年では会田誠、中ザワヒデキ、小田島等などが教鞭をとったことでも知られる。

——大学で経験するような文化的・政治的活動を高校で経験したわけですね。

高校が大学っぽかったんですよね。イベントやって、みんなで打ち上げして、みたいな。浪人中は映画館や美術館にもよく行ったし……そういう意味では、都市の恩恵は受けていた気はします。でも、高校の文化祭のパフォーマンスなんて、しょせんは内輪のもの。予備校時代にちゃんと外で活動しているプロのアーティストと出会った時に「俺は本当に面白いと思ってやってたことが外で通じるかな」って考えるようになりました。

——そこから法政大学に進学して、日本文学の専攻に。

はい。文学と美術、両方やりたかったんです。なので、大学1年の時に美学校にも入りました。法政を受けたのは、現代文と小論文だけで入れたから。小論文では、幸田文の『きもの』を題材に「きものが重要な役割を示すときを書け」みたいな課題で、下ネタで攻めましたね。三島由紀夫的な文体で入念に書いて、通った。

——そこから、作品づくりをするまでは?

『ガロ』(※3)に憧れていて、美学校で1年おきにある修了展で、最初は漫画的な絵画を描いて出していました。20歳の時に「アックスマンガ新人賞」で最終選考まで残ったりしたんですけど、賞は取れなくて。それと並行して、文豪のコスプレパフォーマンスをやったり、色々なことに手を出していたんですね。その中で、現代美術が面白いというか、全てを受け入れてくれる懐の深いメディアだと思ったんです。喋るだけもいいし、小説を書いて展示したっていい。この考え方が一番しっくり来たし、今もコアにしてる部分です。

※3…『月刊漫画ガロ』。1964年から2002年頃まで青林堂が刊行していた漫画雑誌。漫画界の異才を数々輩出した。

——10代の若者が創作をする時、昔ならギター、今ならMacなどのラップトップというように、手に取りやすい道具がありますよね。なぜ中島さんは現代美術と文学を選んだのでしょう。

うーん、なんでだろう。バンドは違うと思ってましたけど……。ひとつ言えるのは、親父が大学の教授かつゲームクリエイターで、メディアアートをやっている人で。それで男の子だからか、エディプス・コンプレックスにまみれた結果、中学校からゲームから離れて「俺は文学だ!」と。渋さを追求しようという方向にいったのかもしれない。

——父親以外に、影響を受けたアーティストはいますか?

今まで出た人以外だと、松蔭浩之さんですね。美学校の松蔭クラスに通って、この人に現代アートの「レシピ」を教わりました。あとは昭和40年会や会田誠さん、Chim↑Pomといった、いわゆるストリートカルチャーとアートが結びついたような人たち。昔からグラフィティが好きだったんですよ。ヒップホップも中学からずっと好きです。

——「現代美術家としてラップをしている」というイメージはありますか? それとも純粋にラップをしている?

ただ純粋にやりたいだけですね。

——Stag Beatを始めたのは?

2012年くらいです。相方のMolphobiaが、ブレイクダンサーだったけどビートメイクも始めると聞いて「じゃあ俺もラップを始めてみよう」ってことで。僕はDOPE MEN、相方がMolphobiaとして、レコードなどからサンプリングしたビートで曲を作っています。

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