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文化の栄える街ベルリンはなぜ生まれたのか? その歴史的経緯と光と影

有名無名問わず、さまざまなアーティストやミュージシャンたちが出会い、交差する街ベルリン。世界的な文化都市として知られるこの街は、どのようにして生まれたのか? アート・ジャーナリストのかないみきが、今のベルリンの姿と共にその過程を紐解く。

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ゆっくりとした時間の流れのなかに広々とした道は悠々とつづき、木々の緑のたくましさと、高層ビルに阻まれることのない青空、まばらな人の姿はどこか自由に見える。ベルリンでは、街から受けるストレスのようなものが、ほとんどない。ここに暮らしはじめて、もうすぐ14年目になる。この街の「雰囲気」が心地良い。街の風景は移り変わり、人も流れ、政治や経済が変動する。10〜15年前と比べれば、当然のことながら家賃や物価は高騰しており、住む場所やスタジオを探すことも、それほど楽ではなくなってきた。

しかし、ベルリンはドイツの首都であるにもかかわらず、他の都市と比べれば家賃や物価はまだ安く、アーティストにとっては、リーズナブルな値段で広い制作スペースを確保できる。多種類の機材がそろい、木彫、メタル、石膏、セラミックなどの各テクニシャンが常駐する大型ワークショップから、写真スタジオや画材屋まで、制作のためのインフラも整っており、そのコストも抑えられる。なおかつ、ヨーロッパの他の都市へのアクセスも良い。

事実、ここ数年の間にも艾未未(アイ・ウェイウェイ)やトマス・サラセーノ、田中フミヤなど、インターナショナルなアーティストやミュージシャンたちが、ベルリンにその拠点を移している。ベルリン国際映画祭、ベルリン・ビエンナーレ、ギャラリー・ウィークエンド・ベルリンなど、国際的かつローカルに育まれたイベントが開催され、キオスクや小さなスーパーにも、子ども向けの本やゴシップ週刊誌とともにアート雑誌が並び、新聞の紙面では大きくアート欄が割かれている。休日の美術館はにぎわい、いくつものギャラリーのイベントが重なれば、まるでその周辺の道路は歩行者天国になったかのように人が集まってくる。ここではアートを体験すること、 アートを通して社会を見て、想像し、考えようということが、何ら特別なことではないのだと感じられる。

では、ベルリンは世界的な文化都市として、どのように発展を遂げてきたのか? 第二次世界戦後の東西分断の時を経て、1990年代に再びはじまるベルリンの文化的な街への変容から現在のシーンまでを追ってみたい。

負の歴史から生き抜く、芸術という手段

FROM BERLIN:ドキュメンタリー「NiK」Part1

二つの世界大戦、ナチズムの時代といった負の歴史を持つベルリンは、こうしたイデオロギーに長い間、抑圧されていた。政治的な弾圧を受けてきた街だからこそ、それまでの社会を考え直し、より良い社会をつくりあげていこうという現代の人々の想いも強い。

第二次世界大戦後の1949年にアメリカ、フランス、イギリスの占領地域だった西側とソ連の占領地だった東側に分断され、その40年後、1989年の11月に東西を分断していたベルリンの壁が崩壊し、1990年に東西ドイツが統一される。ドイツが東西に分断されていた当時の東側では、体制に反すると見なされた作家たちは、隠れて制作をしたり、西側へ亡命するなどしていた。

西ベルリンを囲む「ベルリンの壁」が建設されたのが1961年。この陸の孤島と化した西ベルリンで、文化レベルを国際的に保つために、海外からのゲストを歓迎し、冷戦時代のヨーロッパで大陸を分断する「鉄のカーテン」の向こう側、東ヨーロッパの国々のアーティストたちの活動をも見出し、文化交流することを目的にしたアーティスト・イン・レジデンスのプロジェクトがはじまる。これは1963年にアメリカのフォード財団によって設立されたが、1966年、正式にDAAD(Der Deutsche Akademische Austauschdienst:ドイツ学術交流会)の傘下に入る。

このアーティスト・イン・レジデンスのプログラムでは、毎年海外から6人のヴィジュアル・アーティスト、6人のライター、3人の作曲家、3人の映画監督が1年間ベルリンで滞在制作できるようサポートされる。日本からも、これまでに美術家の河原温や島袋道浩、音楽家の足立智美、映画監督・SABUらが招聘されている。「ベルリンにまつわる作品を制作しなければならない」というルールはないが、ベルリンに魅せられたアーティストたちは、たびたびこの街について制作してきた。

Stan Douglas, The Fruitmarket Gallery, 7 November 2014 – 15 February 2015

例えば、カナダ出身の映像作家スタン・ダグラスは、ドイツの作家E.T.A.ホフマンの小説からタイトルを取り、冷戦後のドイツをテーマとした代表作《デア・ザンドマン(砂男)》(1995年)を制作。DAADのレジデンス・プログラム滞在中、ベルリン近郊のフィルムパーク・バーベルスベルクで撮影が行われた映像作品だ。

この街が、海外のアーティストたちの視点から学ぶことも多い。1年間のレジデンスを体験したアーティストたちがそのままベルリンに拠点を移すこともよくあることだ。また、1974年に設立されたクンストラーハウス・ベタニアンは、各国から集まるアーティストに制作と生活の場を提供し、併設されたギャラリー・スペースでは、滞在中に作品を発表することもでき、オープン・スタジオが行われるなど、アーティストと地元の観客との架け橋になっている。海外から訪れるキュレーターや批評家といったアート関係者を、滞在中のアーティストと引き合わせるスタジオ・ビジットもオーガナイズする。およそ15カ国のアート・カウンシルや、助成団体と提携し、ほとんどのアーティストはそこからの援助を得てやってくる。

DAADの他にも、ドイツには政府が設立した国際文化交流機関ゲーテ・インスティテューションや、ifa(ドイツ対外文化交流研究所 )があり、これらの機関がベルリンのアートシーンの発展に与えてきた影響は大きい。

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